2009年に仏像展示会が東京で開かれ、後に九州でも開かれた。
その展示会は165万人以上の来客を集め、目をみはる成功となった。
もっとも人気だったのが三つの顔を持つ仏像、阿修羅である。
奈良公園では興福寺の五重塔を見ることができる。
興福寺の敷地には興福寺国宝館があり、ここで日本で最も有名な仏像の1つである阿修羅を見ることができる。
興福寺は、710年に奈良が首都となったときに、藤原氏によって建立された。
興福寺は奈良の四大寺のひとつだ。
734年に光明皇后が母を弔うためにお堂を建て、28体の仏像を安置した。
その中に、仏陀の守護神である八部衆がいる。
阿修羅は以前は冷酷な戦士で、常に帝釈天と戦っていたという話がある。
その後、阿修羅は目覚めて真理を悟り、懺悔し守護神の一人になった。
最も早い時代から、人々は癒しと浄化を求め八部衆に祈りを捧げていた。
何世紀もの間、興福寺の建物と仏像の多くは火事、戦争、自然災害によって倒壊してきた。
しかし阿修羅と他の八部衆は、今日まで現存している。
生き残った理由の一つは、軽く緊急時に簡単に運ぶことができたからだ。
例えば阿修羅は153cmの高さで、たった15㎏くらいの重さしかない。
どのようにしてそんなに軽い仏像を作るのだろうか?
まず、木組みを作り、そしてその木組みの周りに粘土を付着させる。
次に、それを漆に浸した布でくるみ、乾かす。
この工程を何回か繰り返す。
次に、粘土と木組みの両方を取り除き、軽くて中が空洞の像を残す。
そして最後に、支えとして内部に軽い木の枠を取り付け、漆の混ざった木の粉を使って細部を付け加える。
脱活乾漆と呼ばれるこの技法は、朝鮮からの芸術家たちにより持ち込まれ、彼らが阿修羅と他の八部衆は作ったと考えられている。
今目にする阿修羅像は1300年近くもそのまま残っている。ただし本来の色は変化してしまい顔は亀裂が発生している。
734年に初めて作られたときに、阿修羅がどのよう見えたのか知りたいと思うかもしれない。それを知ることは可能だ。
奈良国立博物館を訪れるだけで、本来の色の阿修羅の複製を見ることができる。
複製は古代ギリシャの影響が多少うかがえる。金の装飾品を身につけている。
肩にかかる飾り帯は、古代インドを思わせるかもしれない。
赤い皮膚の色は、阿修羅が古代ペルシャの太陽神と何らかの関連を持っていたことを示すようにみえる。
最初の仏像は1世紀に、古代ギリシャ芸術の影響を受けながら、ガンダーラ(現在のパキスタン)で作られた。
その後数世紀の間、中国の帝国が中央アジア、中東、西洋と交易するようになった。
西洋の影響は、中国の人たちに芸術を新しい見方をさせ、やがてこれが日本の芸術に多大の影響を与えることになる。
阿修羅は他の八部衆とは大きく異なる。
1つは3つの顔を持ち6本の手を持つこと。
もう1つは阿修羅は飾り帯を身につけている一方、他の八部衆は鎧を身にまとっている。
しかしそれ以上に、阿修羅は顔に人間の表情を浮かべ、生きているように見える。
事実、心の内に何かを抱えているように見えるーーだがそれは何なのだろうか?
顔の表情を研究する原島博はこう考えている。
あなたの注意を阿修羅の3つの顔の目にひきつける。
左から右へ、そして正面へ3つの顔を眺めると目の位置が上がって行くのに気がつくだろう。
この変化は阿修羅が成熟していく様を示している、と原島は言う。
左の顔は怒りに満ちた若い男性のような阿修羅。
右の顔は苦痛と後悔を表している。
中央の顔は悔い改めを表している。
阿修羅の正面に立ってみると、
「阿修羅は何を語りかけようとしているのか」
と不思議に思うことに気づくかもかもしらない。
長きに渡り、多くの人が同様に不思議に思ってきた。
阿修羅の前で人々は崇拝し悔い改め、浄化を求め祈りにきた。
優しい友人でもあり先生でもあるように、阿修羅はこの過程を経て人々を導いてきたのだ。
1300年近くたった後も、ここまで多くの人が阿修羅に惹きつけられ続ける理由の一つは、おそらく阿修羅が不確実な時代にとても必要な癒しの感覚を与えるからだろう。